ロシア正教と正教聖歌

ロシア正教会について

正教会は東方正教会とも呼ばれます。ローマカトリック教会やプロテスタント諸教会が西ヨーロッパを中心に広がったのに対し、キリスト教が生まれた中近東を中心に、ギリシャ、東欧から、ロシアへ広がりました。20世紀になり共産主義革命による迫害を受け、多くの信徒や聖職者が世界各地に散らばっていきました。
その結果、西ヨーロッパやアメリカをはじめ世界各地に教会が設立され、西方教会しか知らなかった人々にも伝道されるようになりました。日本へは江戸時代末期、函館のロシア領事館付き司祭として来日したニコライ師によって伝道されました。日本正教会「正教会とは」(外部サイト)より)

1995年ロシアの教会群(写真)

ロシア正教会の聖歌について

カトリック教会のローマ典礼が「グレゴリオ聖歌」として知られるローマ聖歌を生み出したように、コンスタンティノポリス教会(現在のギリシャ正教会)のビザンティン典礼からは「ビザンティン聖歌」が生まれました。スラヴ地方への宣教活動は9世紀に行われ、ギリシア人宣教師キュリロスとメトディオスの兄弟が、それまで文字を持たない言語だったスラヴ語のための文字を考案、聖書や祈祷書をスラヴ語に翻訳しました。この時に翻訳されたスラヴ語を「教会スラヴ語」といい、スラヴ語圏の教会では今日でも礼拝で使用されています。またキュリロスが考案したグラゴル文字が、現在のキリル文字へと発展していきました。

また、典礼と一体のものとしてロシアにもたらされたビザンティンの教会音楽も、次第に土着化が進みました。当時の教父たちは「神への思いを妨げるもの」だとして、典礼における楽器の使用を厳しく戒めていました。正教会は現代に至るまでこの戒めを守り続け、無伴奏の声楽曲に特化しています。音楽はあくまで祈りのためのものであり、旋律も「祈祷文を読む」ことが目的となっています。

12〜13世紀におけるロシアではビザンティン由来となる単旋律の聖歌=ズナメニ聖歌が幅広く歌われていました。このズナメニ聖歌は16〜17世紀にキエフ聖歌となり、ポーランドやウクライナの影響もあり、一部プロテスタントのコラール様式を間接的に取り入れながら変化していきました。典礼の音楽が「独立したもの」として捉えられるようになったのはこの時期あたりからだと考えられています。この時期、ロシア正教会聖歌は外国からの様々な影響を受けて、大きく変化・発展したと思われます。

持ち帰ったオリジナルのスコア(写真)

18世紀になると、啓蒙主義と共にイタリアの音楽が押し寄せ、ロシアにも一種のブームを巻き起こしました。ポリフォニーやオペラ、コンチェルトに代表される音楽技法が輸入され、また多くの作曲家がイタリアへ留学しています。その一方で、イタリア的な色彩と技巧に満ちた音楽に対する疑問を投げかけ、「敬虔な単純さ」への回帰を訴える動きも起こりました。

さらに19世紀には、ドイツ・ロマン派の音楽が急速にロシアに移植されます。教会音楽にロマン派的な感情表現の要素が流入し、西洋化・世俗化が進行しました。19世紀も終わりに近づく頃には、このような外国の影響(特にドイツ的な要素)と、民謡におけるようなロシアの土着的な要素を、伝統的な典礼音楽の領域でどのように統合していくかということが、ロシア教会音楽における、そして広くはロシア文化全般にわたる主要なテーマとなっていきました。西洋化指向と伝統回帰指向とが複雑に絡み合い、豊かな広がりと深みを持つ教会音楽文化を開花させたのです。

20世紀前半におきたロシア革命により、無神論を掲げるボリシェヴィキが実権を握りソヴィエト政権が樹立すると、ロシア正教会の多数の聖堂や修道院が閉鎖され、財産が没収されました。聖職者の殺害、強制収容所への流刑や、聖堂の爆破・破壊も公然と行われ、教会音楽も演奏が事実上禁止され、楽譜類も「焚書」となりました。教会音楽家の相次ぐ殉教(チェスナコフなど)・亡命(ラフマニノフ、シュヴェドフなど)とあいまって、致命的な打撃をこうむったのです。

ソヴィエト体制の崩壊と共に、国家による教会迫害は過去のものとなりました。しかし、急速な資本主義・市場経済化の波の中で、民族や宗教の問題が顕在化し、混乱は今も消えてはいません。神への讃美と感謝を高らかに歌う正教聖歌は、そうした激動の歴史と変節、深い痛みや苦しみを信仰の内側に包み込んでいるのかもしれません。
(『近代ロシア聖歌集』やオンライン上の文献から引用し、再編しました)

日本には明治の初めにニコライ師によって正教が伝えられ、祈祷文が日本語に翻訳され、またロシアから招聘した聖歌指導者らによって日本正教会の聖歌が形作られました。正教会の礼拝では聖歌以外でも司祭の高声、読経など「全てが歌われる」といってもよいほどです。楽器を一切使用せずに、神の讃美、聖書の言葉、祈願などの言葉が、歌を通して人々の心に届けられるのが正教会聖歌の特徴です。日本正教会「正教会の聖歌」(外部サイト)より)

近代ロシア聖歌集・収録曲紹介

近代ロシア聖歌集

折田真樹・林正人 共同編纂の「近代ロシア聖歌集」を歌っています。
現在、全曲演奏会に向けて練習中です。全曲演奏会をやり遂げた暁には、新曲に取り組む予定です。

『近代ロシア聖歌集』

CD『近代ロシア聖歌集』

恵雅堂出版株式会社

  1. Шведов, К . Н .(Konstantin Shvedov/シュヴェドフ)
    Свете Тихий(O Gentle Light──穏やかな光/聖にして福たる)
  2. Шведов, К . Н .(Konstantin Shvedov/シュヴェドフ)
    Отче наш(The Load's Prayer──主の祈り/天に在(まし)ます)
  3. Шведов, К . Н .(Konstantin Shvedov/シュヴェドフ)
    Хвалите Господа с небес(Praise ye the Lord from the heavens──天の高きより/天より主をほめあげよ)
  4. Чесноков , П . Г .(Pavel Chesnokov/チェスナコフ)
    Херувимская Песнь(Cherubic Hymn──ケルビムの歌/ヘルウィムの歌)
  5. Чесноков , П . Г .(Pavel Chesnokov/チェスナコフ)
    О Тебе ралуется(All of Creation Rejoices in Thee──恵み満ちたる乙女ごよ/恩寵を満ち被(こうむ)る者)
  6. Чесноков , П . Г .(Pavel Chesnokov/チェスナコフ)
    Благослови, душе моя, Господа(Bless The Load Oh My Soul──わが魂よ、主をたたえよ/わが霊(たましい)や、主をほめあげよ)
  7. Чесноков , П . Г .(Pavel Chesnokov/チェスナコフ)
    Блажен Мчж(Blessed is the Man──喜べ、悪しき道を歩まぬ者/悪人のはかりごと)
  8. Чесноков , П . Г .(Pavel Chesnokov/チェスナコフ)
    Ныне отиущаеши(Now Let Thy Servant Depart──シメオンの歌/主宰や、今なんじの言(ことば)にしたがい)
  9. Рахманинов , С . В .(Sergei Rachmaninoff/ラフマニノフ)
    Богородице Дево, радчйся(Hail Mary──喜び祝え、おとめよ/生神童貞女(しょうしんどうていじょ)や喜べよ)
  10. Кастальский, А . Д .(Alexander Kastalsky/カスタリスキー)
    Хвалите имя Господне(Praise the Name of the Lord──ほめよ主の御名を/主の名をほめあげよ)
  11. Чайковский, П . И .(Pyotr Tchaikovsky/チャイコフスキー)
    Причастный стих(Praise ye the Lord from the heavens──天の高きより/天より主をほめあげよ)
  12. Балакирев, М . А .(Mily Balakirev/バラキレフ)
    Свыше пророцы(From above the prophets foretold of You──世の始めより/上よりの預言)

作曲者紹介

К . Шведов──シュヴェドフ(1886-1954):モスクワ生まれ。聖宗務院学校でチェスナコフらに学び、卒業後は教授を務めた。作品は独特な味わいを持つ新しい作風。革命で1922年にアメリカに亡命、その後新天地で30年にわたって音楽活動を続けた。またドン・コサック合唱団の編曲者としての活躍が、豊かなロシア民謡の伝統を西側に強く印象づけた。

П . Чесноков──チェスナコフ(1877-1944):モスクワ郊外生まれ。革命前のロシア正教音楽界を代表する作曲家、合唱指揮者。聖宗務院学校を卒業。多くの教会聖歌隊を指導し、30代半ばを過ぎてモスクワ音楽院に入学、指揮法と作曲法を学び、後に教授となった。清澄な合唱曲を数多く生み出したが、聖歌の公的出版は許されなかった。第二次大戦中は「宗教関係者」ということで食糧の配給券が与えられず、1944年3月14日、食糧を求めて並ぶ群衆の足下から餓死凍死体として発見された。

А . Кастальский──カスタリスキー(1856-1926):モスクワ生まれ。モスクワ音楽院で声楽を学ぶ。卒業後、「聖宗務院学校聖歌隊」のピアノ科講師、副指揮者を経て校長、聖歌隊首席指揮者を歴任。だが、革命で「聖宗務院学校」が廃止され、その騒乱の中、ライフワークの集大成を果たすことなく帰天。古のズナメニ聖歌を元に、数多くの作品を生み出した。

M. Балакирев──バラキレフ(1837-1910):ノヴゴロド生まれ。幼児期より楽才を顕し、ピアノを学ぶ。1861年にキュイ、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフ、ボロディンと共に、ロシア独自の音楽を追究する運動を本格化させ「無料音楽学校」を創設。また、ヴォルガ川流域の民謡を収集し「ロシア民謡集」を出版。後に宮廷礼拝堂音楽監督に就任。ロシア民謡の旋法と西欧的和声との本質的な違いを明らかにし、チャイコフスキーらに大きな影響を与えた。

П . Чайковский──チャイコフスキー(1840-1893):ウラル地方ヴォトキンクス生まれ。幼児期よりピアノの他、フランス語・ドイツ語の手ほどきを受ける。10歳で家を離れ、サンクトペテルブルグの法律学校寄宿舎に入る。その後、本格的にピアノのレッスンを受け、作曲を始める。また、イタリア人教師に声楽を学び強い影響を受けた。法務省に勤めながらサンクトペテルブルグ音楽院を卒業、モスクワ音楽院の教授に抜擢される。バラキレフの運動に共感しロシア民謡への強い関心を持ちながら、自らの基盤となる西欧音楽の技法・表現と結びつけ、ヨーロッパ的音楽言語へと拡大。3大バレエや協奏曲、交響曲の数々はあまりにも有名。典礼音楽は11曲ほどの小品を数えるが、『聖金口イオアン(ヨアンネス・クリュソストモスの聖体礼儀 op.41)』がその代表作といえる。
詳しくは、⇒チャイコフスキー・マニアックス!(外部サイト)等をごらんください。
※【チャイコフスキー・マニアックス!】制作者さま 貴サイトにご連絡先が見つかりませんでした。何か問題がありましたら、下記までご一報お願い致します。

C . Рахманинов──ラフマニノフ(1873-1943):ノヴゴロド近郊セミョノフ生まれ。幼児期より母にピアノの手ほどきを受けるが、農奴解放政策の影響で生家は没落、両親も離婚した。サンクトペテルブルグ音楽院からモスクワ音楽院に移り、チャイコフスキーに見いだされてピアノ・作曲法を修める。『ピアノ協奏曲第2番』で不動の名声を獲得し、ボリショイ劇場の指揮者としても高い評価を受ける。1917年の革命でストックホルムに、翌年米国に亡命、西側諸国で精力的な演奏活動を行った。チャイコフスキーを継ぐロシア・ロマン派の巨人として有名。
詳しくは、⇒ラフマニノフ資料館(外部サイト)等をごらんください。
※【ラフマニノフ資料館】館長さま 貴サイトに表示されているアドレスにメールさせて頂きましたが、USER UNKNOWNでご連絡できておりません。何か問題がありましたら、下記までご一報お願い致します。